不文憲法史とイギリス王

ということで、今日の解答。
答えはADBC。マグナ・カルタ→権利の請願→人民保護律→権利の章典となります。
マグナ・カルタ(=大憲章)が一番早いのは割と有名ですが、残りは分からない人が多かったのでしょうか?


ということで、超俺式手っ取り早く覚える世界史講座の開演ですwww

イングランドの成立

イギリス史は、その元となったイングランドの成立から始まります。
その発端となったのは「ゲルマン民族大移動」。
375年に西から来た「アヴァール人」という謎の民族がヨーロッパに侵入してきます。
これにより、ゲルマン人の一派「西ゴート族」が移動を開始。これにより他のゲルマン人も一斉に移動し始めました。
この流れにより、現在のドイツ・デンマークに住んでいたアングロ人とサクソン人がイギリスに移動します。
こうして原住民であるケルト人を圧迫して「アングロサクソン七王国(ヘプターキー)」を建国します。
これが始まり。

ヴァイキングの侵入と再征服

879年にエグバート(エグベルト)が七王国を統一して正式にイングランド王国が成立後、ヴァイキング(デーン人)の侵入が激化します。
これをアルフレッド大王が撃退しますが、1016年にクヌート(カヌート)が遂に征服しちゃいます。
一時的にデンマークノルウェーまで支配して巨大王国が完成しますが・・・
1066年にノルマン公ウィリアムが王位継承権を主張して征服。ノルマン朝を成立されます。
これがいわゆる「ノルマン・コンクェスト」。

ジョン王とマグナ・カルタ

ノルマン朝が断絶し、プランタジネット朝になったイングランドでは、1199年にジョン王が即位しました。
ところが、フランス・カペー朝フィリップ2世に敗れて領土を失ってしまいます。
これに対して戦争しようと、課税を始めて喧嘩を吹っ掛けましたがまたもや敗戦。

これにぶちギレた貴族がジョン王を廃位しようとしますが、最終的に国王の権限を制限するという内容を盛り込んだ「マグナ・カルタ」をジョン王に提出し、王は廃位されるよりかはまだマシと思って渋々認めました。

議会制の成立

ジョン王に代わって王となったヘンリ3世は、失ったフランス領土の奪還とマグナ・カルタを無視した課税を始めます。
これにまたキレた貴族が「シモン・ド・モンフォール」を中心に議会を作って反抗していきます。
最終的に、次代のエドワード1世治世下で公認され、模範議会が成立します。
これが、今でも続くイギリスの議会制の根底となります。

権利の請願

時代は流れて近世。
ステュアート朝のイギリスでは1603年*1ジェームズ1世が即位します。
この人、イギリス国教会と結託してピューリタンを弾圧したり、王権神授説論者だったので議会を完全にしかとしちゃったり。
そんな中、1625年にはチャールズ1世が即位します。
貴族は、こんなことが二度と起こらないように不当逮捕・不当徴税の禁止を盛り込んだ「権利の請願」を可決します。

チャールズ2世の暴走と人身保護律

共和政によるクロムウェルの失政により王政復古したイギリスは、1660年にチャールズ2世が即位します。
早速、議会権利を承認して、国王は専制政治をしないという「ブレダ宣言」を出しますが・・・
イギリス国教会を主流なのにカトリックを復活させようとしちゃったりするので、貴族が『専制政治やべぇ』と思っちゃうわけですよ。
これに対抗する目的で、審査律を制定しちゃってカトリックを事実上封印します。
そして極め付けに「人身保護律」で国王の不当逮捕を禁止します。

名誉革命権利の章典

1685年、チャールズ2世の弟であるジェームズ2世が即位します。
彼は兄の意思を継いでカトリックによる専制政治を目指します。
『これはやべぇ』と思った議会は、国王の長女であるメアリと夫であるオランダ総督ウィレム(=オラニエ公ウィレム)を国王に迎える決議を採択します。
こうして、誰も傷つかずに革命が成功します。これが「名誉革命」。
後にメアリ2世・ウィリアム3世として即位した二人は、権利の請願を正式に承認し、「権利の請願」として成文化される運びとなりました。



・・・めでたしめでたし。
すこし駆け足で説明しちゃって申し訳ありませんwww
しかしながら細かく説明しながらやっていくと、キリがないのでそれはまたの機会に。

*1:受験的なテクニックで、江戸幕府開府とステュアート朝成立は同年。